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サロン振り返り日記 #2 浮遊する街 ①

美しいという感覚は浮かび上がる。巡り巡って自分の心に着地する。そんな街について考えてみる。

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ご無沙汰しております。山田峯子です。

もう春の陽気が訪れておりますが、年末年始に実家に帰った時のことを少し、お話しします。


私の実家は、海沿いの静かな街です。
今は東京に住んでいますが、ふと疲れた時に目を閉じると、風が強くて仕方がない駅前や、畑のほうに走っていく姉の姿を思い出します。記憶の中だけの景色です。

実際はもっと、なんでもない街だったことを帰省する度に思い出します。帰省したら、頑固だった父もスマートフォンでYouTubeの動画をみていました。

昔何度か訪れてとても好きだった景色をみて、もっと懐かしい気持ちになると勘違いしていました。大きな山を望んで振り向いた場所にあった私の家は、非常に小さくなっていました。実家の周りの景色をみて、私たちの面影があるようでない、実際に見ていたはずの景色を他人事のようにしか思い出せず、もどかしく思いました。誰かの気配がなくなるというのは、このようにして起こっていくのかもしれません。

この心情を、「変わらないものはない」という言葉にまとめて考えることもできますが、少し違う文脈に乗せてみます。




国 破 山 河 在

杜甫の『春望』の一句です。この冒頭の書き出しは非常に美しい。この句の美しさは、今まで見ていた景色が遡行的に色を失い、新しくて穏やかな色がは足元に生まれてくるようなものと言えるでしょう。
もちろんこの冒頭だけでも十分美しいですが、この後に連なる句が、自分の心にとても良く働いていると思います。


白 頭 掻 更 短

渾 欲 不 勝 簪



帰省した時の心情をこの『春望』の波に乗せて考えてみたい。サロンの日記をヒントに、何か繋げられないだろうかと、読み返してみました。そうしたら、サロン参加者の友人が来てくれた時のメモが出てきました。



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美しいと感じた瞬間の感覚が、どこかへふわりと浮かんで、消えてしまいそうな気がするんです。強く「美しい」と思ったはずなのに、家に帰ると、リビングのいつもの茶色いテーブルが、変わらずそこにあって、普段と同じようにツヤを帯びている。それを見ると、なぜか急に、今すぐ家を飛び出して、海にでも行きたくなるんです。でも、実際には行かないんですけどね。

結局、「美しい」という感覚は、それだけではどこか不安になってしまうのかもしれない、と思うんです。その不安を埋めようとして、何かに駆り立てられるように動いていると、まるで自分が何でもできるかのような、底なしの可能性を秘めているような、そんな奇妙な妄想を抱いてしまうんですよね。

そうしているうちに、妄想している自分自身の体験そのものに美しさを感じてしまって、またふわりと浮かんで、どこかへ行ってしまう。そして、それにどうしようもなく惹かれて、また走り出したくなる。その繰り返しが、まるで無限ループのように思えて、気が遠くなってしまうんです。
でも、疲れるじゃないですか。だから、圧倒的な力で迫ってくるような芸術や舞台が、私は少し苦手なんです。

(S.R. さん / 当時20代)

※掲載にあたり、本人の承諾を得ています。

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